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無神論
無神論者を自称した最初の無神論者であるポール=アンリ・ティリ・ドルバック男爵
無神論(むしんろん、atheism ラテン語:atheismus)とは、世界観の説明に神の存在、意思の介在などを必要としない考え方である。 神に関心がない、いわゆる「無宗教」と無神論は混同されがちだが、無宗教でありながらも「神は信じる」と言う人もおり、両者は厳密には区別して考えられるべきである。また、無神論の典型とされる唯物論と関連性が深い機械論は、どちらかと言えば神がいるのかいないのかの議論を避けているので必ずしも無神論とは限らない。 神の観念は実に多様であるため、神の定義如何によってどんな考え方も無神論とみなしうるし、その逆も成り立つ。故に一部の一神教徒が汎神論宗教や仏教を『無神論』とすることがあり、逆に一部の多神教徒が一神教徒を『無神論』とすることもある。そのため無神論にはいくつかの定義が存在する。『一神教におけるような唯一絶対の造物主を認めない立場』あるいは『神もしくはその他の類似の名前の付いた、人間や自然を超えた存在すべてを認めない立場』を無神論と呼ぶ。前者の定義に当てはめれば、仏教や儒教は無神論的宗教であるが、後者の定義に当てはめれば有神論的宗教と見なされる。 無神論者は、神の存在についての考察や議論を避ける消極的無神論と、神の不在を明言する積極的無神論に分けられる。無神論の明確な対義語は有神論である。理神論や汎神論は、無神論と対義的に扱われることもあるし、消極的無神論の一部と見なされることもある。 無神論は一般的には既存宗教と対立するとみなされる考え方であり、両者の間には軋轢が生じることも多い。しかし、近年では科学の発展や浸透に伴って唯物論的な考え方が一般に受け入れられてきており、無神論に対する風当たりは弱まってきているとされる。一方で、保守的な地域では無神論に対する根強い不信感もある。さらに、アメリカ合衆国で台頭したインテリジェント・デザイン論のように、表向きでは科学と宗教の融合ないし折衷を自称しながら、実質的に自然科学を排斥する運動も見られる。一方で厳格な無神論者は宗教に対する激しい敵意を抱くことも多い。共産主義国における宗教の弾圧や虐殺などが無神論と結び付けられることも多い。
[編集] 語源一般的な語源は古代ギリシャの「atheos」「asebs」「atheots」である。古代ギリシアの民族や国家(ポリス、ギリシアの都市国家)においてその守護神を信じない「ある人々」(例:アテナイで女神アテナを信じない人たち)を示した。 キケロがラテン語で翻訳したことからラテン語を語源とする説もある。無神論者はラテン語で「atheus」という。 [編集] 宗教と無神論[編集] キリスト教と無神論原義から、原始キリスト教徒は、「ギリシアの神・ローマの神を信じない者」という意味で無神論者とされた時期があるが、中世や近代では、キリスト教の宗教観に反対する立場をとるものが、無神論者を名乗ることが多い。反キリスト教的な無神論者の中にはマルクスやニーチェのようにむしろ古代ギリシャに傾倒した人物が少なからずいる。 特にこの種の傾向が強まったのは19世紀後半のドイツである。この時代のドイツは合理主義及び自由思想の影響を受けて無神論の卓越性が増し、フォイエルバッハやアルトゥル・ショーペンハウアー、マルクス、ニーチェなど多くの顕著な哲学者は神の存在を否定した[1]。特にフォイエルバッハの『キリスト教の本質』(1841年)はマルクス、シュトラウス、ニーチェら若い哲学者に熱烈に歓迎され、キリスト教は前代未聞の激しい攻撃に晒された。 キリスト教の教義では、神は、人間の「生前の行動が、最後の審判(死後の裁き)での判断基準となる」としている(解釈されている)が、全知全能たる神が、どの人間が正しい行動をとり、どの人間が正しくない行動をとるかを、前もってわからないわけが無いはずであり、この「全知全能たる神」の存在に関しての解釈(または説、説明)は、矛盾する点が指摘されている。予定説参照。 現代では憲法によって信仰の自由が保障されているが、宗教的に保守的な国や地域(アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国等の一部地域)では、無神論であることを口にすることがタブーとされることが多い。神を信じず、信仰の対象を持たない人間は、気違い、悪魔を信仰する者(サタン)、道徳の無い者、無教養扱いにされることがあり、これら有象無象の誤解や不利益を回避するための方便として、神や霊魂の存在を必ずしも肯定しない思想を持つと主張する場合もある。もっとも近年では、無神論を口にすることへのタブー意識は低くなってきている。無宗教参照。 社会主義国では、キリスト教徒やイスラム教徒を初めとする宗教の信者は過酷な迫害に苦しんだ。共産主義国家、マルクス・レーニン主義政権国家の多くは、虐殺を含む手段で宗教を弾圧した。しかし、共産主義者が無神論の立場をとっていたとしても、社会主義国が無神論の立場をとったために残虐であった、ということを意味しない。これを混同した無神論に対する反論も多い。 [編集] 他宗教と無神論一般的に、仏教は宗教学の類型で無神的宗教と呼ばれるように無神論とされることが多い[2]。フォイエルバッハやジークムント・フロイトのように神を人間の発明とする考え方は仏教に通じるとされる(Walpola RahulaのWhat the Buddha Taught 1974 51~52頁)。ショーペンハウアーに至っては仏教を「完璧」と言ったことがあり、エンゲルスも部分的ではあるが仏教の空を著書「自然の弁証法」で高く評価した。しかし、仏教においてはキリスト教的な意味における「全知全能たる神」の存在を「考えていない」だけに過ぎないとする見方がある。仏教では、その様な問題を無意味な議論として忌む傾向が強い。このような考え方はむしろ不可知論に近いとされるが、不可知論は「存在の可能性」を想定した上で、その「不可知」を論じている点など、根本的な違いがある(詳しくは、諸法無我、神#ブッダ(仏)と神等を参照)。また、仏教自体が宗教ではなく、衛生学であると(好意的に)解釈したニーチェのように仏教を宗教とは見做さない人物もいる。 また、神について「敬して遠ざける」としている儒教についても、無神論とみなされる場合が多い。事実儒学者の中には無神論を積極的に唱える者も存在した。 日本の神道についても、これを汎神論の一種と見なす考えも存在する(少なくとも似たものであるのは事実である)。そして、「汎神論」=「無神論」という考えからすれば、神道もまた無神論の一種と言う事になる。 ただ、いわゆるキリスト教以外の宗教における無神論については、キリスト教的な意味での「神」の存在を否定することを無神論とするようなキリスト教中心主義的な定義がいまだ宗教学などでも主流であり、疑問視されている。仏教などを無神論として分類する欧米の学者には、それらの宗教の中で自説にあう側面のみを選択的に取り上げているという批判もある。 より中立的な定義として、神またはその他の名を持つ、人間を超えた超自然的な存在を考えない立場のことを無神論とするという意見もある。この場合、既存の宗教はすべて有神論に分類され、純粋な唯物論や機械論が無神論となる。 [編集] 人間中心主義無神論の一形態に人間中心主義(Anthropocentric)がある。人間中心主義は倫理及び価値の源として人間性を支持し、個人が神や宗教に依存しないで道徳的な問題を解決することを主張する。代表的な論者にマルクス、ニーチェ、フロイト、ジャン=ポール・サルトルなどがいる。 [編集] 西洋における「無神論者」という表現欧米の一部の国では税関係の書類などで信仰する宗教を書く「宗教欄」が存在する国もある[要出典]。 しかしながら欧米の保守的な一部地域では「無神論者」という表現は非常に大胆な表現であり、無慈悲な人物像を連想させてしまうため注意が必要となる。ただし、一般的には無神論は哲学上の立場として広く受け入れられている。 [編集] 主張無神論者の指摘・主張には以下のようなものがある。
[編集] 著名な無神論者詳細は無神論者の一覧を参照 [編集] 関連項目[編集] 外部リンク
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